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こんにちは、Yodiです。
日本国内でよりF1の魅力をより広げたくブログ活動をしております!
F1ドライバーで記憶にも記録にも残っているドライバーって誰だろう・・・?
やはりF1も他プロスポーツ業界と同じく、入れ替わり立ち代わりが激しいスポーツだと言えます。故に皆の記憶に残らないまま、引退を迎える選手や監督も大勢います。
しかし、反対にプロ選手を引退した後も、スポーツ全体に影響を与え、皆に愛される選手がいることも事実です。
F1業界では、ダニエル・リカルドが「皆に愛されたスポーツ選手」と言えると考えます。
彼の明るい性格や豪快な走りでファンを魅了しつつ、キャリアの中でさまざまな浮き沈みを経験してきたドライバーの一人なのです。
そこで、本記事では、F1を見始めたばかりの方や、ダニエル・リカルドの名前を耳にしたことはあるけど詳しくは知らないという読者の皆様に対し、F1界でもっとも愛されたドライバーの一人、ダニエル・リカルド(Daniel Ricciardo)の経歴だけでなく、彼の栄光の瞬間から挫折、そして彼がF1に残したものまでを詳しく紹介します。
もくじ
【前提】ダニエル・リカルドってどんな人?
ダニエル・リカルドはオーストラリア パース出身の元F1ドライバーで、14シーズン258戦に出場し、通算8勝を挙げた名実ともに立派なプロドライバーです。
リカルド自身はオーストラリア出身(1989年7月1日生)ですが、彼の両親は2人は元々イタリア出身であり、後にオーストラリアへ引っ越しております。
リカルドの魅力はプロドライバーとしての運転技術はもちろんですが、彼の屈託のないその笑顔と周りを楽しませるエンターテイメント性もまた魅力の一つとなります。
【第1章】才能の目覚めとレッドブル育成プログラムへの参加
リカルドがF1への道を切り開いたのは、レッドブルの育成プログラムとなります。
2008年、フォーミュラ・ルノーでのテストで目を引き、ダニエル・リカルドはすぐにレッドブルからの支援を受けるようになりました。
その後、フォーミュラ・ルノーやイギリスF3でのタイトル獲得を行うことで徐々に実力の証明を行うことができるようになってきたのです。
2011年、HRT(Hispania Racing Team)でF1デビューを果たすと、翌年2012年にはトロロッソ(現ビザ・キャッシュアップ・RB・フォームラワン・チーム)でフル参戦をしました。
予選での一発の速さやレースでの落ち着いた対応力は、ダニエル・リカルドを「未来のスター」と評される存在に押し上げる要因となりました。
【第2章】トップチームレッドブルでの黄金期と挑戦
初勝利から輝いた2014年
2014年、リカルドは実力が認められトップチームであるレッドブル・レーシングに昇格をしました。
セバスチャン・ベッテルの後釜として迎えられた彼は、さらに期待を上回るパフォーマンスを披露し続けました。
カナダ、ハンガリー、ベルギーでの3勝は、その年のF1シーンを飾るほどの結果となりました。
特にベルギーGPでは、戦略とペース管理を完璧にこなし、リカルドのドライビングセンスを証明する内容となった。
完璧に近い2016年
リカルドのキャリアハイとされる2016年は、彼の総合力がピークに達したシーズンとも言えます。
モナコでのポールポジション、マレーシアでの勝利、シンガポールGPでのメルセデスドライバーを分ける活躍など、リカルドはレースごとにその存在感を示し続けました。
過去F1ドライバーチャンピオンシップ2回も獲得した、フェルナンド・アロンソがリカルドのことを「F1で最高のドライバー」と称賛したのも、この年だった。
当時の彼は、キャリアの中で一番の実力を発揮していた時期だと言えます。
しかし、その後リカルドに待ち受けていたのが、順風満帆なキャリアではなく、「苦悩の日々」であることを当時は誰も予想することはできておりませんでした。
【第3章】キャリアの岐路とルノー移籍の真実
トップチーム レッドブルを去った理由
当時、リカルドは、レッドブルで実力と存在感を示し続けていたものの、その地位は少しづつ揺らぎ始めておりました。
現ドライバー・チャンピオンシップ4回獲得した、マックス・フェルスタッペンの台頭がその理由です。
マックスの台頭により、チーム内での優先順位が変化していると感じ、2018年にキャリアの方向性を見直すようになりました。
その結果、2019年シーズンからルノーへの移籍を決断する。当時、多くのF1ファン・関係者が驚き、なぜ彼がタイトル争いできるチーム去り、タイトル戦線から諦めるような選択をしたのか疑問を抱く人も多かったのです。
ルノーでの成果と成長
ルノーに在籍をしていた2年間は、表彰台争いのない中堅チームでの挑戦となりました。
それでもリカルドは確固たる成績を残し、特に2020年には2回の表彰台を獲得し、苦しい状況の中においても、リーダーシップと適応力を示したシーズンとも言えます。
当時、F1を見始めた時期だったのですが、特に2019年の鈴鹿サーキットで開催された日本GPでは、16番手から6番手まで順位を上げた力強いレース運びとドライビングには今でも強く印象に残っております。
※しかし、当時ライバルチームであったレーシング・ポイント(現アストン・マーティンF1チーム)からの審議申立により、リカルド含めルノーのドライバー2人はレース後失格となりポイントの獲得はできませんでした。
ご参考までに、当時のリカルドの力強いレース運びとドライビングが分かる動画をYouTubeで見つけましたので、ぜひご覧ください。
【第4章】マクラーレンでの苦闘
期待されたタイトル戦線復活
2021年、リカルドはマクラーレンへ3年契約にて移籍をしました。
マクラーレンF1チームは、リカルドへタイトル獲得へ向け、新たな希望を託したシーズンでもあります。
移籍直後、リカルドはイタリアGP(モンツァ)で優勝し、「復活ののろし」ともいえる結果を出すことができました。しかし、それ以降のシーズンにおいては、チームメイトのランド・ノリスに大差をつけられるなど、当初のリカルドへの期待を下回るパフォーマンスが続くこととなりました。
マクラーレンへ適応できなかった現実
リカルドは、滑らかなコーナリングスタイルを得意とするドライビングスタイルでした。
しかし、マクラーレンの車はリカルドの得意とするドライビングスタイルに合わず、特に低速コーナーではタイムロスが顕著に現れるようになりました。
その後も、マクラーレンの特性に適応できなかった彼は、次第に自信を失っていくこととなったのです。
そして、2022年の夏、マクラーレンはこれ以上のトップ戦線離脱を食い止めることを選択し、リカルドを同シーズン末で解放することを決定したのです。
それはリカルドとチームの3年契約が終了するちょうど1年前のこととなります。
リカルドの離脱が発表された後のランド・ノリス(当時チームメイト)のTwitter(現X)への投稿内容が今でも印象に残っているので共有させていただきます。
【第5章】アルファタウリ復帰と未完の物語
レッドブルファミリーへの復帰2023年
2023年はレッドブルのサードドライバーを務めることを認め、同年11月23日にチーム側から5年ぶりにレッドブルファミリーへ復帰することが発表されました。
当時、アルファタウリでは、角田裕毅のチームメイトであるニック・デフリースが苦戦しており、予選・決勝ともに角田に遅れを取っていたのです。
そのため、ニック・デフリースはシーズン途中でシート喪失が噂されるようになり、後任はリアム・ローソン(現Visa Cash App RB Formula One Teamドライバー)だと言われておりましたが、イギリスGP直後の7月12日、リカルドがハンガリーGP以降のレースでレッドブルからのレンタルで当時アルファタウリにて起用されることが発表されたのです。アルファタウリの前身であるトロ・ロッソから考えると約10年ぶりの古巣復帰となり、大きな話題となりました。
しかし復帰後間もない8月25日、第14戦・オランダGPの初日FP2においてクラッシュし左手中手骨を骨折。このためリカルドは骨折が完治するまでレースを欠場し、その間リアム・ローソンが代役を務めることとなりました。
その後、第18戦のアメリカGPでレースに復帰し、メキシコGPでは予選4位・決勝7位の走りを披露しました。
F1キャリア最終章2024年
リカルドの最終年となった2024年シーズンは、「スクーデリア・アルファタウリ」からチーム名が変更されたビザ・キャッシュアップ・RB・フォームラワン・チームのドライバーとして参戦しました。
シーズンを通じて活躍を期待されたリカルドでしたが、チームメイトの角田裕毅には遅れを取る形でシーズン中盤まで経過しました。
そうした、結果を受けチームは第18戦ンガポールGPを最後にチームを離れることが発表されました。
このレースではくしくも18位という結果に終わり、レース終了後のリカルドが車からしばらく降りてこないシーンとレース後のドライバーインタビューでのリカルドの涙には、筆者も思わず涙しました。
このように、かつてのような栄光を取り戻すには至らなかった。
結果的に、この復帰はリカルドにとって再出発の舞台ではなく、キャリアの最終章となってしまった。
【最後に】リカルドがF1界に残したもの
ダニエル・リカルドは、F1ファンの心に特別な記憶を残したドライバーの一人です。
彼は常に楽しそうに笑い、誰もが驚くようなオーバーテイクを決めてきました。その姿は、レースの結果以上に多くの人を魅了しました。
F1では、どんなに才能があっても、運やタイミング、そして車の性能がそろわないとタイトルを獲得するのは難しいと言われます。リカルドの場合、特に2014年や2016年に、もしもっと競争力のある車があれば、きっと世界チャンピオンになれたのではないかと今でも言われています。
それでも、彼がファンに愛された理由は、ただ勝つためだけに走っていたわけではなかったからでしょう。リカルドは常に楽しむことを忘れず、彼のドライビングはいつもアグレッシブで観客をワクワクさせました。その笑顔やキャラクターは、F1の枠を超えて多くの人に影響を与えました。
彼のキャリアが終わった今でも、リカルドが見せてくれた名シーンやその人柄は、F1の歴史の中で語り継がれるでしょう。
ダニエル・リカルドは、チャンピオンにはなれなかったかもしれませんが、間違いなくF1のスターでした。
これからも、日本のスポーツ市場において、モータースポーツ産業がより人気が出るよう、私なりに微力ですが今後もF1に関する情報や気になるテーマ・話題について発信をしていきたいと思いますので引き続きよろしくお願いします。
これからもF1に関する情報発信していくよ!
以上、Yodiでした!
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